私、管理人は台湾原住民とかなり深く関わってきた日本人です。台湾の原住民と言うのは、日本統治時代は高砂族と呼ばれる台湾の先住民族の事で、多くが山岳地帯に住み成人すると刺青を彫り、出草と言う首狩りの風習があったとされています。彼らは少数民族に分かれており、最大の亜美族でも約20万人、続いてパイワン族、タイヤル族と続き、現在台湾政府は16民族を認定しています。彼らと日本人とは深いかかわりがあります。それは、彼ら台湾原住民が先の日本の戦争で(高砂義勇隊)と呼ばれる志願兵から成る部隊を編成し、ニューギニア、フイリッピンなどの戦場では日本軍を多いに助け、その勇敢さと、徹底した忠誠心は日本兵以上とも評価されていました。
最大4000人の原住民が志願し、その多くが亡くなったのですが、誠に恥ずかしい事ですが、戦争で敗れた日本政府は彼らを日本国籍を失ったとして、戦後保証の対象から外してしまったのです。1990年代に一時金は支払われたものの、給与は未だに未払いであり、一部原住民が裁判も起こしました。
私は誕生日が同じと言う事で亜美族の代表と個人的に親しく付き合いをしているので、彼らのご両親のお墓にも行った事がありますが、お墓の名前には日本名がありました。もちろん他の部族の人たちとも交流がありますが、亜美族は比較的温厚で日本人ともよく性格が合い、先の戦争では日本兵士と共に酒を飲んでよく歌っていたそうです。その代表の話によると、日本が台湾を統治する以前は、彼らは共通の言語を持っておらず、日本語が彼らの言葉になったそうです。
現在、彼ら台湾原住民は決して台湾の中で幸福に暮らしている訳ではありません。台北にも原住民が多く暮らす地域がありますが、多くは台湾東部の花蓮県や台東県、そして中部山岳地域に暮らしています。ここは台湾ではもっとも発展が遅れている地域で、彼らの多くが低賃金の農業や、漁業に従事しており、大多数の台湾人からは決してよく思われていません。しかし彼らは貧乏がゆえに学が無く、彼らの現状を見るたびに心苦しくなります。
それでも彼らはとても愉快な奴らで、酒を愛し、ダンスと歌が大好きです。彼らの家には殆どの家に古いカラオケの設備があり、私も歌わされるのですが・・・・・・・自分の下手さが恥ずかしくなるほど彼らの歌唱力はすごく、日本の古い歌を完璧に歌ってくれます。なんというのかな・・・・・音に対するセンスが根本的に違うように思えてなりません。また驚くのは彼らの身体能力の高であり、たった20万人の亜美族からは非常に優れたスポーツ選手を日本や米国に搬出しているのです。
スポーツ選手[編集]
岡村俊昭 – プロ野球選手。平安中学から日本大学を経て南海軍に入団、1944年首位打者。戦後は南海のコーチ・二軍監督・スカウトを歴任。
楊伝広 – 陸上競技選手。ローマ五輪十種競技の銀メダリスト。
楊俊瀚 – 陸上競技選手。100mと200mの台湾記録保持者。
郭源治 – プロ野球選手。1981年から1996年まで中日ドラゴンズに所属。
陳義信 – プロ野球選手。中日ドラゴンズや兄弟エレファンツで活動した選手。
陳鏞基 – プロ野球選手。アミ族名:馬耀・吉洛(Mayaw Ciro)。統一セブンイレブン・ライオンズに所属。アテネ五輪および2006年のWBCの台湾代表。
曹錦輝 – プロ野球選手。MLBコロラド・ロッキーズなどに所属していた。
陽耀勲 – プロ野球選手。2006年から2013年まで福岡ソフトバンクホークスに所属。
陽耀華 – プロ野球選手。陽耀勲の弟、陽岱鋼の兄。四国アイランドリーグplusの複数球団に所属していた。
陽岱鋼 – プロ野球選手。福岡第一高校を経て2006年から北海道日本ハムファイターズ、2017年から読売ジャイアンツに所属。
郭岱琦 – プロ野球選手。統一セブンイレブン・ライオンズに所属。2009年のWBC台湾代表。
黄志龍 – プロ野球選手。2010年から2011年まで読売ジャイアンツに、2012年からは統一セブンイレブン・ライオンズに所属する投手。
曽櫟騁 – テコンドー選手。ロンドン五輪女子57kg級の銅メダリスト。
と日本にもなじみの深い野球選手も多く ハンサムな陽岱鋼のお兄さんとは顔見知りです。また歌手も多く、彼らの才能の多彩さにはいつも驚かされます。
私は香港から帰国し、日本人に薬やサプリに頼らない薬膳生活をして欲しいと願って、薬膳のビジネスを始めました。しかし、もう一つ、私は台湾原住民に対して、日本人として勇敢に戦って亡くなった彼らの子孫に対して、何か返したいのです。現在、台湾東部の花蓮を始めとする観光地は非常に苦しんでおり、多くのホテルが売りに出されています。何故なら選挙で祭英文氏が台湾総統に再選されたため、中国からの観光客が全く来なくなってしまったためです。特に花蓮は戦前は日本人が居住者の半分であった日本とのかかわりが深い地域で、日本の小学校跡や、精糖所跡、農家、神社やお寺まで残され、保存されています。
私に出来る事は、台湾原住民の栽培する薬膳植物を日本で販売する事。彼らの作るバッグやアクセサリーを販売する事。そして薬膳仲間が増えれば、ぜひ年に一、二度ツアーを開催して、彼らの経営する民宿に泊まり、原住民の料理を食べ、共に飲んで歌いたいと考えております。もちろん高価なツアーなどではありません。一人でも多くの今の日本人に彼らの存在を知ってほしい。それが全てです。